世界の音楽都市 ~第3回ミラノ~
クラシック音楽の歴史と文化が息づく世界の都市を題材に、その魅力を紐解いていく連載「世界の音楽都市」。執筆は、古楽やオペラを中心に執筆・講演活動を行う音楽物書き・加藤浩子さんです。
第3回はイタリア・ミラノ。オペラの殿堂・スカラ座を擁し、ヴェルディゆかりの地としても知られるこの街はまさに“イタリア・オペラの心臓部”。ミラノが築いてきた芸術の歩みをたどります。
ミラノの中心部からほど近いブオナロッティ広場に面して建っている、レンガ造りの美しい建物がある。
一歩なかに入ると、ピアノや歌が聞こえてくることがしばしば。中庭の向こうには、白壁にステンドグラスがはめ込まれた寺院のような建物が鎮座している。
「音楽家のための憩いの家」。イタリア・オペラの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)が私財を投じて建てた、引退した音楽家のための老人ホームだ。ミラノでは、建築主の名を取って「ヴェルディの家Casa Verdi」と呼ばれている。寺院のような建物は、ヴェルディ夫妻が眠る霊廟だ。
ホームは今でも現役で、リタイアした音楽家に加え、最近では学生も数人入居するようになった。広場にはヴェルディの像が建つが、その視線は2キロほど離れているスカラ座の方を向いている。
ヴェルディは最晩年に建てたこの家を、「私の最高傑作」と呼んだ。

憩いの家の全景と、その前に建つヴェルディの像
ミラノは、ヴェルディの街である。
イタリア一のオペラハウス、スカラ座はその象徴だ。ヴェルディはここでオペラ作曲家デビューを果たし、第3作目のオペラ《ナブッコ》(1842年初演)で大ブレイクし、最晩年の2つの傑作《オテッロ》(1887年初演)《ファルスタッフ》(1893年初演)を含む7作のオペラをスカラ座で初演した。もちろんプッチーニやトスカニーニら多くの音楽家もスカラ座で活躍したが、やはりスカラ座は「ヴェルディの劇場」である。

スカラ座の外観
以前、スカラ座のロビーで聞いた言葉が忘れられない。
「スカラ座で外国人がヴェルディのオペラを指揮するなら、イタリア人より3倍くらい上手くないとブラヴォーと言ってもらえない」
ヴェルディに対するミラノ人の誇りが、垣間見える言葉ではないだろうか。
ただし「ミラノ音楽院」を受験した時に落とされた恨みをヴェルディは一生忘れず、後に音楽院が「ヴェルディ」の名前をいただかせて欲しいと頼んできた時はきっぱりと断っている。音楽院が「ヴェルディ音楽院」を名乗るようになるのは、彼の死後、1905年のことだった。
イタリアはオペラの国である。オペラ(全体が作曲された劇)はフィレンツェで生まれた。フランス革命前までは、フランス以外で上演されるオペラはほぼイタリア(語)オペラだった。
今でも、イタリアの音楽生活の中心はオペラハウスだ。国が公認するオペラハウスは13あるが、これらのオペラハウスには専属のオーケストラ、合唱団、バレエ団があり、オペラ以外にバレエやオーケストラ単独の公演もやっている。これらの機能が揃わない「国家公認」ではないオペラハウスも含めれば、その数は何倍にもなる。そして公認非公認を問わず、オペラハウスの建物はたいてい街の中心の一等地に堂々と聳えているのだ。
オペラハウスが街にとって重要だったのには理由がある。オペラハウスは単なる観劇の場ではなく、街の重要な社交の場だった。スカラ座をはじめとするイタリアの劇場に見られる「ボックス席」は、オペラハウスが社交場だった名残である。ボックス席は小さな個室のように仕切られており、平土間を囲んだ各階に連なっているが、かつてこの席は一部屋丸ごと定期会員が貸し切っていた。上演中の出入りも自由だったし、飲食も逢引きも政治的な密会も行われていた。これは平土間も天井桟敷も同じではあったが、密室であるボックス席はより自由だった。ボックス席は、オペラハウス内の別宅のようなものだったのだ。

スカラ座の客席
各ボックス席には、通路をはさんで向かい合う小部屋がある。今はクロークとして使われているが、以前ここは侍従たちの控えの間だった。彼らはここからボックス席に料理も運んだ。パルマの王立歌劇場で聞いた話だと、1980年代くらいまでボックス席での飲食は普通だったという。
2030席を擁する大劇場のスカラ座には、4階のボックス席がある。開演前、スカラ座のシンボルの一つである大シャンデリアの明かりが落ちると、ボックス席とその上の天井桟敷に灯っている明かりが薄闇の中に浮かび上がる。そのゴージャスで幻想的な光景は、宮殿の大広間にいるようだ。
1778年に開場したスカラ座は、新古典様式を得意とした建築家ピエルマリーニの設計。正面ファサードはギリシャ神殿風で、意外に簡素だ。だが内部に入るとシャンデリアが映える大理石張りのホワイエや、赤と金と白に彩られた壮麗な劇場空間が広がる。外の簡素と内の豪華、この落差こそ、オペラの殿堂を演出するものだった。

スカラ座のホワイエ
2027年、チョン・ミョンフンがスカラ座の音楽監督に就任することが決まった。「スカラ座で外国人がヴェルディを振るなら、イタリア人の3倍くらい上手くないとブラヴォーと言ってもらえない」という言葉をご紹介したが、チョンにはそれが当てはまる。チョンの快挙は、彼がイタリア人の何倍もブラヴォーなヴェルディを振ったからに他ならない。2018年に 《シモン・ボッカネグラ》を指揮した際には、「現代最高のヴェルディ指揮者」という称賛が贈られた。もちろん彼のレパートリーはヴェルディだけでなく、スカラ座ではウェーバーからベートーヴェン、ショスタコーヴィチまで合わせて9作のオペラを指揮している。
特筆すべきは、スカラ座フィルハーモニーとの関係だ。コンサートでの共演はなんと141回。2023年にはオーケストラ史上初の「名誉指揮者」の称号を献呈されている。音楽監督への選任は、団員たちからの支持も厚かったことの証明だ。
9月、そのスカラ座フィルハーモニーとチョン・ミョンフンが来日する。ソリストは世界の注目を浴びる藤田真央。今一番ホットな組み合わせを聴き逃す手は、ない。
加藤浩子(音楽物書き)
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